ペッパーランチ物語 | ペッパーランチ

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ペッパーランチ物語

Stage1 助走

邦夫少年の夢

 1942年10月、静岡県静岡市に一人の男児が誕生しました。一瀬邦夫と名付けられたその子は、大きな愛情に包まれてすくすくと育って行きました。
 邦夫は、母が病弱だったので小学生の頃から台所に立っていました。母に教わりながら、七輪でご飯を炊き、味噌汁をつくり、それを自分でも食べて学校へ行ったことが何度となくありました。こうした家庭環境がコックへの道を志させたともいえましょう。やがて、邦夫は母とある約束をしました。それは「コックの道に進むからには、日本で5本の指に入るようになること」。その実現のため、高校卒業後、当時では有名な洋食屋だった浅草の『キッチンナポリ』に就職したのです。
坊主頭に詰め襟姿の邦夫の社会人生活の第一歩でありました。
 コック見習いの邦夫の仕事は自転車での出前と皿洗いから。やがて少しずつコックとしての仕事を基礎からみっちりと叩き込まれていきました。
 そして、赤坂の「山王ホテル」へ転職。ここには米軍の高級将校のクラブがあり、アメリカの合理的考え方、最先端の調理機器を使っての調理技術の取得、牛肉に対しての知識などを学び、身に付けていきました。

独立、「キッチンくに」を開店

 9年間のホテル勤めの後、1970年、一瀬は独立し、向島に「キッチンくに」を開店しました。6坪12席の小さなお城です。
 ホテルのコックだった経験はもとより、この向島という下町の立地に合ったメニューを考案し、お客様にとっていちばん身近な料理をおいしく出そうと心がけました。

試行錯誤の日々

 しかし、どうがんばっても12席の店では売上の限界があります。出前をしたり、ステーキをメニューに取り入れたり、試行錯誤の日々でした。
 ステーキは思うように売れませんでした。一瀬は当時を振り返り、語ります。

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  今だったら、一切れ目のステーキをお客様が口に運んだ瞬間を見届け、そのうなずかれる横顔に感動を覚えますが、当時はそこまで考える余裕などまったくありませんでした。この店に相応しい価格と量に勘違いのこだわりをもってしまったのです。お客様を甘く見た、自分の食べたいステーキを自信を持って売らなかったことが失敗の原因です。ステーキくに店訓は、それを教訓として生まれました。一、お客様は常に我々の審査員と思い、より満足される味を追求いたします。一、自身に魅力ない商品はお客様にお売りしてはいけません。この二つは、店訓の一部ですが、今に生き我が店の料理提供のパックボーンになっています。
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その後、1年以上たって、再びステーキをメニューに登場させることを決意しました。「今度は、価格が高くなっても本当においしい、自分が食べたいステーキを提供するぞ」そんな一瀬の思いは、またしても空振り。せっかく和牛にこだわったり、おいしいステーキソースを開発したりしたものの、思うようには売れませんでした。
 ところが、ある時、上客がつくようになりました。週に2、3度来ては最高級の和牛ヒレステーキを何人前もテイクアウトしてくださるお客様が現れたのです。当時最盛期だったボーリング関係の仕事をしている方でした。お客様が店を育ててくれます。一生懸命に努力すれば売れるんだ、と一瀬に自信と可能性を感じさせることになります。やがて、お店でもステーキの注文が増えるようになり、一瀬は「ステーキくに」ののぼりを店の前に立てました。さらに、出前用のオートバイにも「ステーキくに」と書いたり、「ステーキくに」の旗をつけたりました。こうした販売促進の工夫も効果をあげ、注文が増えていきました。
 一瀬のアイデアマンぶりはすでにこのころから発揮されていたのです。

自社ビルを建てたものの

 お店の売上が順調に伸び、一瀬が36歳の時に、自社ビルを建てるに至りました。コックを目指してこの道にり、ホテルでの修業を経て独立、念願の自社ビル建築。それはひとつの夢の実現でした。
 しかし、一瀬は何かくすぶった思いを抱えていたのです。全てを達成したかのような錯覚、問題意識を持ない人生の空白。店舗面積が2倍になり、売上も利益も増えたのに、何か物足りない。このままでいいのだろうか。いや、いいはずがない。当時の心境を一瀬は後年、ビジネス誌の対談で次のように語っています。

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36歳で四階建てのビルを建てることが出来ました。つい最近オープンしたのにもうビルを持ったのかと近所で評判になり、まさに幸せの絶頂でした。ただ、自分でもそのことに酔ってしまった。親子四人ひとつ屋根の下で暮らしたいという長年の想いが達成されて満足し、何不自由なく43歳まで安隠と暮らしました。ところが社員が年に二回か三回、必ず「辞めたい」と言ってくるのです。私としては辞めると言われるのが嫌でしょうがない。これは一体どうしたものかと思ったのです。私なりに原因を考えると、自分に夢がないからだと思い当たりました。自分だけが小さいところで満たされており、社員にとっては夢も希望もない会社になっていた。だから仕事を覚えたら自分のために辞めていくのは当然でした。(「KIGYOKACLUB」2001.12発行より)
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 そんな一瀬の胸に新しいステージへのビジョンが描かれていたのです。
 それは、自分一人が店を構え自社ビルを立てて満足するような小さな満足でなく、お客様にも従業員にも喜ばれる、みんなが幸せになれる大きな満足の得られる事業をしていきたい。それにはまず、従業員がそこで働くことに誇りをもち、夢を描けるような、会社らしい会社にすること。すでに、上場というステージさえ、夢の彼方には描かれていたのでした。

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